【衝撃】「正しい努力をしないと報われない」が間違っている理由

この記事は「正しい努力をしないと報われない」という考えが間違っている理由について解説した記事です。

(※この記事は2021年4月に更新されました)

 

皆さんは本気で努力をした経験はありますか?

僕は小中と硬式野球をしていて、その時はかなり本気に努力をしていました。

毎日300回素振りをして、ノックを受け、週5回はバッティングセンターで打ち込みをしていました。

常に頭の中は野球で一杯で、全ての力を野球に注いでいました。

 

しかし悲しいことに、僕は絶望的に運動音痴でした。

ほとんどど試合に出ることは出来ず、後輩の試合を応援することに終始していました。

僕はそれでも、努力は必ず自分に返ってくると信じでいました。

 

最近は「正しい努力をしないと報われない」という意見をよく聞きます。

しかし、その考えは間違っているのです。

どんな努力でも報われるはずです。

 

その理由を解説します。

世に蔓延する「正しい努力」論

メジャーリーガーのダルビッシュ有は以前こんなツイートをしています。

このツイートのリプをみてもわかる通り、多くの共感の声を集めいています。

 

林修先生も同じようなことを言っています。

努力は裏切らない、という言葉は不正確です。
正しい場所で、正しい方向を向いて、十分な量なされた努力は裏切らない、が正しいんです。

 

二人とも「努力なんてすれば良いってもんじゃない。効率を考えながら取り組まないと意味ないぞ」ってことを主張しています。

僕はこれらの言葉はある程度正しいとは思いますが、この言葉を信じ込むことは危険だとも思います。

「正しい努力をしないと報われない」が間違っている3つの理由

「正しい努力をしないと報われない」とは、視野の狭い考え方です。

この考え方を口実に努力をすることを避ける人が大勢います。

なぜ、「正しい努力をしないと報われない」が間違っていると言えるのでしょうか。

その理由は3つあります。

正しさなんて人それぞれだから

そもそも「正しさ」って何でしょう? 

もし「成功」=正しさであれば、成功者のみが正しい努力ができるってことになります。

その考えでいくと、成功しなかった人の努力は無駄だったのでしょうか?

また、Aさんにとっての正しさが、そのままBさんに当てはまるわけでもありません。

そうすると正しさは「個々人によって違う」という話になり、正しさを定義できなくなります。

例をあげると東北楽天イーグルスに所属している福山 博之というプロ野球選手は

胃を強くするために、生肉を食べるというトレーニングを行なっていました。

これを正し努力と考える人はほぼいないでしょうが、実際に福山選手は成績を上げて1億円プレーヤーになりました。

側から見れば非効率で無茶苦茶な努力も、人によっては正しいということになります。

僕が言いたいのは

「努力の方向性や効率の正しさなんて人によって違うんだし、それは他人に定義されるもんじゃない」

ってことです。

いくら正しいからって、生肉は食いたくないでしょ?

正しい努力なんて簡単にできないから

 

 

「正しい努力」って口で言うほど簡単なものではありません。

例えば元メジャーリーガーのイチロー選手は、「間違ったトレーニングを10年間していた」と認めています。

 

ウエイトトレーニングが正しいとされるプロ野球業界で、イチローも身体を大きくすることに励んでいました。

しかし10年ほど経ち、体を大きくするのではなく自分にあった筋力量を身に付ける方が良いと気づき、さらに成績を伸ばしましたのです。

 

みなさん良いですか?

あのイチローでさえ「間違った」努力を10年もしていたんですよ?

僕ら凡人が最初から正しい努力ができるわけがありません。

 

頭を必死に使って、考えに考え抜いて、様々な本や周りからの意見を取り入れた方法でさえ、間違っている可能性は大いにあるのです。

「正しい努力」なんて誰にも簡単にできることではない、ということです。

 

「報われる」の定義があやふやだから

どういう状態を「報われた」と表現するのでしょうか。

プロ野球選手になったり、東大に合格することが「報われた」だと僕は思いません。

僕は、どんな形であれ努力は報われると思っています。

 

例えば、僕は野球に全身全霊をかけて努力をしていました。

しかしプロ野球選手や甲子園はおろか、レギュラーにすらなることはできませんでした。

 

じゃあ僕の努力は報われなかったのでしょうか?

僕はそうは思いません。

 

運動が全くできなかった僕が、人並み以上にはスポーツができるようになりました。

自分に自信がつき性格も変わりました。

何よりも我武者羅に努力するという良い経験ができました。

 

努力をした分は十分に帰ってきたと僕は思っています。

 

また別の例になると、僕は高3の夏まで国立大学入学を目指して苦手な数学を熱心に勉強していました。

しかしその後急に方今転換をして、私立文系に目標を切り替えたため入試科目では数学を使いませんでした。

周りからは「早くから私立に絞っておけば数学を勉強する必要もなかったのに勿体無い。全くの無駄な努力じゃないか」と言われました。

 

しかしそれから4年が経ち、教育系のNPOに入社して思わぬ事態になりました。

周りの職員が全くできない数学を僕が教えることができるので、とても周りから重宝されるようになったのです。

高校レベルの数学を教えることができるスキルは僕しか持っていないので、その分自分で好きな仕事を選ぶ特権も与えられました。

全く予想していなかったことですが、むしろ志望校に合格するよりも大きなメリットを僕にもたらしてくれました。

つまり、努力がどんな風に報われるのかなんて誰にもわからないってことです。

もちろん、自分が願った形で努力が報われるのがベストです。

しかし、そうでないからといって努力が無駄とは限りません。

いつか何らかの形で、必ず努力は報われるものなのです。

まとめ:「正しい努力」にとらわれるな!

「正しい努力をしないと報われない」は間違っています。

  • 「正しさ」なんて人の数あるから、ある意味「全ての努力が正しい」と言えるから
  • 「報われる」なんて人の価値観だから、考え方次第で「全ての努力が報われる」から。

なので、「どんな努力をしたって結局は何らかの形で報われる」が正しいのです。

もちろん、試行錯誤して自分なりの「正しさ」を追求するのは大切だと思います。

しかし「正しくない努力は無価値だ!」という考えは間違っています。

 

でも、僕が言いたいのはそんなことではありません。

「正しい努力」を言い訳に、努力から逃げる人がいることが嫌なんです。

 

努力する一番の難しさは、考えすぎちゃうことだと思うんですよね

「この方法であっているのか」「この努力は報われるのか」

って考えだすと迷いが生じて、全力を出せないんですよね。

 

それどころか

正しい努力じゃないと意味ないし、報われないかもしれないから努力なんてしねーよ!
なんて思う人もいるかもしれません。

このように「正しい努力」に囚われ過ぎると、はじめの一歩がなかなか踏み出せなくなっちゃいます。

だからこそ僕は、「難しいことは考えず、やってみよう!」「やった分だけ努力はいつか報われる!」と声を大にして言いたい

 

筋トレのためにまずプロテインを色々買ってしまう人や、英語を勉強する前に色々ハウツー本を買う人は「正しい努力」に囚われている人だと思っています。

筋トレがしたいなら、取り敢えず腕立て伏せを部屋で始めて、英語を勉強したいなら家にある教科書を読み始めればいいんです。

効率を重視した挙句、スタートが遅れてしまうと意味がありません。

 

取り敢えずやってみて、それから少しずつ方向修正していきながら自分なりの正しさを見つければいいのではないでしょうか?

「正しい努力」を追い求めていると、いつまでたってもスタートできませんよ!

それでは!